文章書くのって怖いし、なんてカロリーを食うのだろうって話
最近職場でそっとずっと憧れていた、プロジェクトの違う上司と話せるようになりまして。
その人は実名でnoteとかX(未だ慣れない呼び方)を運用しているからたまに見るのだけど、文章がやっぱり上手。
引き込まれるというか。
そんな文章を書いてみたいと思ったけど、書けなかったわ〜。
そもそも文章書こうと思うととんでもなく億劫になるタイプの人間だから、本当に今の仕事や、このブログを書くこともまた不向きすぎる。
こうして凡人のまま新年を迎えるのであった〜。
自由研究を誰にも見てもらえなかった話
お盆から外れた時期ではあるが、先週は私の夏休みだった。
街も空いているし、私はこの9月に差し掛かる頃に夏休みを取るのが好きだ。
8月31日。
幼稚園から高校まで、私の夏休み最終日はこの日。
小学生の頃を振り返ると、私はコツコツ計画的に物事を進められないタイプだったので、毎年夏休み最終日は「自由研究を完成させる日」だった。
私は動物園・水族館の年間パスポートも持っているくらいには動物や魚が好きだ。
一時の将来の夢は「動物園の飼育員」。
両親のおかげでかなり動物と接する機会があったからだと思う。
母の勧めで上野動物園のサマースクールに応募ハガキを送り、当選をお知らせする往復ハガキを握りしめ、動物園の門をくぐっていた。
毎年応募していて、実は抽選に外れたことがないのは今でも自慢できる。
家族旅行でも動物や自然を観察する時間が必ずあり、ポケット動物図鑑は旅行のスタメンだった。
おかげで自由研究もほぼ動物に関することだった。
サマースクールで学んだことや、旅行先で出会った動物について調べたことを模造紙いっぱいに書いた。
クイズコーナーも設けて仕掛け扉も作成した。
書きたい情報があまりに多かったので、1枚ではなく2枚以上書いていた記憶がある。
夏休み明け、クラスメイトはミニチュア模型や木製パチンコなど見るからに楽しそうで華やかなものを作っていて、それらは廊下に飾られた。
私の研究成果である模造紙も廊下に貼られたが、みんなは華やかなものに夢中で、私がサマースクールで学んだ、”動物それぞれのうんち”や”マレーシアで出会った動物”は見向きもされなかった。
小学生ながらにちょっぴり悲しかったのを思い出した。
「私がもっとカラフルにわかりやすく”動物それぞれのうんち”について書けていたら、もっとみんな見てくれていたのだろうか…。」
「来年は最終日に一気にやらずにもっと時間をかけて書こう。(結局できない)」
「というか自由”研究”なのがだめなのか?自由”工作”でもいいわけだし…。」
「やっぱり紙じゃなくて立体的なのがいいよね~。」
「でも私、みんなが知らない、動物のすごいところ書いてるんだけどな…。」
サマースクールや旅行に連れて行ってくれた両親には、自由研究については言わなかった。
子どもながら情けなかったのか、はたまた申し訳なかったのかもしれない。
だがしかし私は不器用で工作も苦手だったので、1日で終わらせられて、且つ私でもできることがこれくらいしかなかったので、ほぼ毎年模造紙を貫き通した。
さらに言えば好きなことについて書くので楽だった。
そんなことを思い出して心がシュンとした夜、母に思い切ってこのことを打ち明けた。
「私がひたすら模造紙に書いてた動物の自由研究、あれ人気なくて誰も見てくれなかったんだよね~。」
「ましてや”うんちについて”なんてみんな見ないよね~。」
と笑いながら伝えた。
母からの返答は意外だった。
「色んなお母さんから『○○(私)ちゃんの自由研究すごい!って子どもが言ってるの』、『サマースクール僕も行きたい!ってうちの子が言ってて…あれってどこで申し込めるの?』とか言われたよ。しかも結構な数。」
「だからうち、応募数的な意味では上野動物園にかなり貢献してると思うよ(笑)」
「”うんち”に関して言えば、今うんこドリル流行ってるし、時代の先をいっていた」
え~~~~~~~。
じゃあみんな見てくれてたんだ、私の自由研究。
10年以上経ってから知った事実。
20歳超えてる私に、母がいまさら気を遣って嘘を言う必要もないし、たぶんクラスメイトの保護者に言われたのは本当なんだろう。
当時言ってくれたらどれだけ助かっただろうとも思ったけど、自分で自由研究の話題一切出さなかったので仕方がない。
むしろ勝手に悲観的になって卑下していたのは自分だけだったのかもしれない。
それに、例え自由研究を誰も見てくれなかったとして、私が学んだことが誰かから否定されたわけではない。
今も胸に残っている大切な知識、経験、思い出、宝物だ。
動物園のバックヤードなんてめったに入れないし、もし違う日に旅行に行っていたら巡り合えなかった動物がいるかも。
飼育員の方にパンダについて質問をした時、「いい質問だね」と褒められたことも覚えている。
たぶんその模造紙はクローゼットの奥底にしまってあるか、もしかしたら捨ててしまったかもしれない。
「タイムマシーンがあったらいつに戻りたいですか?」という質問に対する答えの選択肢がまた新たに1つ増えた。
「素晴らしい自由研究だね。よく観察できてる!上手~!」と過去の自分を褒めてあげたい。
8月31日。
今週のお題「自由研究」
「当事者の方でフラッシュバックなどの心配がある人はご注意ください」というアナウンスで、自分が当事者だと気付いた
今月20日の夕食前くらいの時間、台所に立っている母とペラペラ話しながらテレビを見ていた。
最初はドラえもんを見ていたのだがそれも終わってしまい、母がチャンネルを変え、そのタイミングで「報道特集」が始まった。
お目当てのドラえもんが終了した私はスマホをいじりながらその報道特集が始まるのを見ていた。
正確に言えば”テレビは見ず耳だけはテレビにフォーカスしていた”だ。
今回の報道特集は「家庭内の性虐待 父からの性虐待と向き合う」という内容だった。
元々ドキュメンタリーは好きな方なので、最初は見ようとしていた。
アナウンサーのちょっとした語りのあと、VTRの始まる前にこんな言葉が聞こえてきた。
「当事者の方で、フラッシュバックなどの心配がある方はご注意ください」
一言一句合っているかはわからないけど、ニュアンスはこんな感じだった。
この言葉を聞いた瞬間、私はチャンネルを変えた。
10年以上前、小学生の頃、私は性被害に遭ったことがある。
一緒に住んでいた祖父母・父母・弟ではない、親戚からだった。
10年以上も経っているのにいまだに傷は癒えていない気がする反面、どこか他人事のように感じている自分もいる。
母に打ち明けたのはおととし。
あることがきっかけで泣きながら、嗚咽しながら話した。
誰かの前でこんなに泣いたのは初めてなんじゃないかってくらい泣いた。
若干過呼吸。
フラッシュバックと、言ってしまったという気持ちと、今後どうしようという感情と、とにかくいっぱいいっぱいだった。
「どうしてずっと言わなかったの」
たぶん母だってこんなこと聞きたくなかっただろうけど、そりゃあ聞きたくもなる。
でも「この子はこんなことをした汚いやつだ」って思われたくなかったし、母を傷つけてしまうんじゃないかと申し訳なかったから。
母は「そんなこと思うわけない」とだけ言って、”当事者”である親戚の家に向かっていった。
傷害事件だって窃盗事件だって確かに被害者を「かわいそうだ」とは思うけど、「汚い人」とは思わない。
なんでだろう。
もし自分の周りの友人や家族が同じような性被害にあったら、絶対にそんなふうには言わないし、そもそもそんなこと一秒たりとも頭に出てこない。
「大変だったね、気付かなくてごめんね、つらかったね」自分が伝えられる限りの言葉を伝えて、つらい気持ちを伝えてくれた相手をとにかく受け止める。
でもいざ”当事者”になるとそんな言葉を自分自身に優しく投げかけることはできなかった。
これは余談だけど、この間性被害に遭った女性がいた。
その人は警察でもない、親でもない、”SNSの人”にどうしたらいいか助けを求めていた。
その時に私と同じように聞かれていた。
「どうして親に言わないの?」
「親にそういうことしてたって知られたくないから」
私と同じように答えていた。
やっぱり性被害を受けた人はその気持ちが先行するんだろう。
大事にしてくれた親だからこそ申し訳なくなるの。
自分は何も悪くないはずなのに。
報道特集の話に戻ろう。
私がチャンネルを変えたのは、自分のフラッシュバック云々もだけど、ほかの一つの理由として母に見せたくなかったからだ。
そもそも”当事者”ってなんだろう。
Wikipediaによると、
「起きている問題を現場で直に体験し、影響を受けている個人のことをいう。」
だそう。
被害に遭っているところに母はいなかった。
でも私が泣き叫んで打ち明けた時点で問題に直で対面しているから、つまり母も当事者なのかもしれない。
だから当事者の自分、そして第二の当事者かもしれない母のためにチャンネルを変えた。
そして普段性犯罪のニュースを見てフラッシュバックとかはなかったのだけれど、今回の一件でタイトルの通り「自分は当事者なんだ」という闇みたいな気付きに飲み込まれた気がした。
もちろんフラッシュバックを予防するために、こういったアナウンスはとても重要な手段だと思う。
でもやっぱり、自分は性被害に遭った当事者としてずっと生きていくんだなって現実を突きつけられた気がした。
当事者でも立ち直って、被害者をサポートする活動をしている人もいる
当事者以外にふさわしい言い方はないかなと考える反面、正解が見つからない。
もちろん正解なんてないんだろうけど。
ところであの報道特集はやっぱり見た方がよかったのかな。
どこか見れる場所があったら誰か”当事者”じゃない人と見たい。